三塁を蹴る

140字以上書きます

ラオスに行く友達の送別会をして、別れについて思ったこと

ラオスに行く友達のために送別会が開かれた。二年は会えない。別れはいつだって悲しい。でも本当に悲しいのは彼との別れではなかったのかもしれない。実は、時間は大した問題じゃない。

彼を見送るために集まった友達。その中には二年以上会っていなかった人もいる。しかし「お別れ」していたわけじゃない。そんな意識はなかった。そう、ほとんどの「別れ」は気づかないうちに済まされている。僕がその送別会で本当にこわかったのは、ラオスに行く彼と二年間会えないことじゃない。彼には二年後きっと会える。こわかったのは、彼を見送る他の友達と会えなくなることだ。最後の最後、別れの挨拶をしながら(これはラオス行きの彼としたものよりずっと簡素なもので、まるでまた来週にも会うかのような調子だったが)僕ははじめて別れを意識した。

しかし、本当はこんなことも気にしなくていい。

ある別の友達に久しぶりに連絡するときに、気恥ずかしくなった僕は「前の友達に会いたくなって」なんて書いて、すぐに消した。「前の友達」ってなんだ? お前は馬鹿か? しかし、そのときの僕は、どうしてもそういった書き方しかできず、やむなく連絡をあきらめた。本当に馬鹿だな。

「今度、会おう」というだけでいいんだ。だってお別れしていないんだから。時間は大した問題じゃないんだから。

 

ありがとう鈍色の春

どうしようもなく独りよがりで傲慢で視野が狭く自惚れていた僕の、その紺碧の感性はいまや見る影もなく…… いつか教養に溢れた僕はそのことに気づき、泣くだろう。

どこもかしこもサーチライトが当てられて、もはや辺境は電脳空間にも失われたが、少子高齢化の進む日本において、午前四時の静寂だけはこれからも安全なようだ。午後の後に午前がやってくる生活にも慣れて、みんなとの連絡に半日かかるようになった。これが遅いインターネットかい。それともストロボ効果を発動している錆びた歯車かい。

夢はそろそろ5割くらい叶ってるころかい。え? まだ語っている最中なの?

半分まで狂気の水を飲んだ人。もう半分飲むか、吐くかの二択に迫られて迷わず全て飲み干し無事狂ったそうだ。吐くのは苦しいもんな。わかるよ。

みんなもわかるだろ?

 

廃墟が消えていく

あまりに季節感不安定なので眩しい日は全て夏と判断してしまうようになった。桜が散った後の季節をそれでも春と言い張る気概が無い。

18歳の頃、茗荷谷に廃墟があった。元々は中国人留学生向けの寮で、何年か前に火災で全焼してから、取り壊しを待つだけの極上の廃墟になったらしかった。

夏休みに当時入っていた演劇サークルの同期と先輩と数人でその廃墟に忍び込んだ。

震災の翌年だったからか、大学に入って初めての夏休みだったからか、僕はかなり浮かれていたと思う。

ちがうよな、浮かれていたのは、僕がいまそれを思い出したからだ。そうでなきゃ、そこにあった世界全てが理由になるだろうけれど、それを言っちゃおしまいだ。

廃墟はその翌年取り壊され、僕は一度その取り壊されている途中で柵の外から眺めた以外は、もう二度とそこに立ち寄らなかった。

もう冒険もしたくないのかい

休みがやってきて、僕は一瞬も迷わず寝ている。朝の煌めく光線は僕を灰にしてしまうから、八千円の遮光カーテンで、僕は太陽と戦う


気がつくと太陽の姿は消え、外は暗くなっている。僕はカーテンを開き、「勝ったぜ」と笑う


この戦いはいつか来たるべき冒険への準備ではない、いつか来たるべき冒険への伏線ではない、いつか来たるべき冒険への布石ではない、


これは純粋に、いま寝たいから寝るという、限りなく動物的行為です


終電後の街も特別ではなくなった


では平日は人間的かというと、こちらは機械的

言わずもがなだ

そうだろ


まったくよう…… それで幸せになっちまって



この文章はかろうじて人間的だった頃の僕がプログラミングしたAIによる自動筆記だ



漫画編集者になって五ヶ月が経ちます/忘備録

漫画編集者になって五ヶ月が経ちます。面白さを「理解する」というのは感受性の死をどうしても必要とする、というよりもそれらはイコールであると思えてくる。感受性を磨き、なにかに脅かされながら、正しい世界を作ろうともがく。作家。それを最悪にクレバーな頭脳で丁寧に整え、スマートにするのが、編集者。理屈でいえばこれが正しい役割分担だと思う。

ぼくはお酒を飲めない代わりに世界酔いしていたけれど、なんだかもう素面でしかいられない。いまでは酒を注ぐ。正しいルールに従って。正確に丁寧に公平に集めて編む。

誰も知らないルールを創り出したい。

嫌なことはすぐ忘れちゃう女の子になろうぜ

「わたしのかっけえギター」と呟いてその子が放った音は本当にかっこよかったので正しい情報を正しく伝えることは本当にこの世において素晴らしいことだと思った。

もう才能があるフリも誰もなにも気にしなくていい。同じその子が舌ったらずな言葉でフニャフニャ言っていた「月が雨粒に映って何億何兆の月が生まれる」なんて話よりも、正しくかっけえギターを鳴らすほうが何京倍も泣けるよ。ごめんね二十四歳になってしまって。

 

不幸や悩みがないと作品をこしらえることができないってもう五年以上も当然のことと信じてきたけど幸せを形にすることだって大切なことだとやっとわかった。幸せをちゃんと形にしておかないと立ち止まって振り返ることができなくなる夜が終わらなくなる。私は幸せか?の問いに対して丁寧にYESはいと回答していく作業が本当の幸せを生むということがあってもいいと思う。私はカタチから入るタイプ。幸せにカタチから入っていくタイプ。

日本ダービーから人との距離のはかりかたの話へ

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日本ダービーにチュウ兵衛親分のカタキをとりにいったら二万負けたという話からはじめようと思うんですが。最終的に人との距離のはかりかたになります。

金を増やしたい気持ちより、ウリャオイって何も考えず普通じゃない額の金を投じて、それがブチ当たることでなにかしらの自分の第六感/センスの存在が立ち現れる気になる気持ち良さを求めてやっているフシがある。

それは例えば麻雀でヤバめの危険牌をなんの保証もなしに通す快感。崩れそうなジェンガの1ピースを勢いよく抜き取る瞬間。ブロック崩しで、たまたまブロックの群と天井の間にボールが入ってめちゃくちゃ点が入るのってよく考えられてるなと思います。適当にすれば適当にやるほどの気持ち良さはある。本気でやったことが上手くいくのとは別に。

いや結局本命のレースでぶっ飛ばされた、けどまあそれで済んで良かった。卒業レースも、ラスト2単位のレポートもなぜか規定字数の7割で提出して、これで通りゃもうけモンだなって気持ちだった。いやそもそも、残り卒論と別に2単位って計算も、二年前にしたっきりで全然自信がなかったけれど、なんだかんだ最後まで再計算することはなかった。合っていて本当によかった。

最近いろんな人と話していて改めて自分は、自分が強運の星のもとに生まれついていると過信しているなと思います。超がつく楽観主義です。そしてそれは、いままで自分がクソ恵まれている環境に身を置いて(置かされて)きたからだなあとも、それはまあ本とかも色々読んで、統計的にも。

そんでまあ人、人が好きというかもう結局なんとかなると思っているので、とりあえずみんなイイぞ!って気持ちになるのが特徴としてある。のはなんだかなあと思っていたけど、これは良さということにしようと。

いや実はなんとかなってなくて、たまに気がつくと、おや、これはもしかしていわゆる絶交状態というやつかな? という事態があり、まあそれはごく稀にしか気づかないので多分、気づいていない絶交が実はたくさんあるとは想像しているけど…… 『人との距離のはかりかた』という名前しか知らない曲があるんですがときおり名前だけ思い出すんですがそれがわかってないのではと思って思い出すのははじめてだな!

どうやら人との距離のはかりかたは、わかるわからないとかじゃなくて、やっている人はやっている系ぽいということに齢24にして気づいたのだけど、齢24になっちまったので、仲良い(と思っているか願っているかしている)人はどうか、うまくステップを踏んで良い距離を掴んでくれと祈るしかない針人間(針人間はウソ、というのは高2以前より比較的やっていっているつもりという気持ち)