三塁を蹴る

140字以上書きます

日本ダービーから人との距離のはかりかたの話へ

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日本ダービーにチュウ兵衛親分のカタキをとりにいったら二万負けたという話からはじめようと思うんですが。最終的に人との距離のはかりかたになります。

金を増やしたい気持ちより、ウリャオイって何も考えず普通じゃない額の金を投じて、それがブチ当たることでなにかしらの自分の第六感/センスの存在が立ち現れる気になる気持ち良さを求めてやっているフシがある。

それは例えば麻雀でヤバめの危険牌をなんの保証もなしに通す快感。崩れそうなジェンガの1ピースを勢いよく抜き取る瞬間。ブロック崩しで、たまたまブロックの群と天井の間にボールが入ってめちゃくちゃ点が入るのってよく考えられてるなと思います。適当にすれば適当にやるほどの気持ち良さはある。本気でやったことが上手くいくのとは別に。

いや結局本命のレースでぶっ飛ばされた、けどまあそれで済んで良かった。卒業レースも、ラスト2単位のレポートもなぜか規定字数の7割で提出して、これで通りゃもうけモンだなって気持ちだった。いやそもそも、残り卒論と別に2単位って計算も、二年前にしたっきりで全然自信がなかったけれど、なんだかんだ最後まで再計算することはなかった。合っていて本当によかった。

最近いろんな人と話していて改めて自分は、自分が強運の星のもとに生まれついていると過信しているなと思います。超がつく楽観主義です。そしてそれは、いままで自分がクソ恵まれている環境に身を置いて(置かされて)きたからだなあとも、それはまあ本とかも色々読んで、統計的にも。

そんでまあ人、人が好きというかもう結局なんとかなると思っているので、とりあえずみんなイイぞ!って気持ちになるのが特徴としてある。のはなんだかなあと思っていたけど、これは良さということにしようと。

いや実はなんとかなってなくて、たまに気がつくと、おや、これはもしかしていわゆる絶交状態というやつかな? という事態があり、まあそれはごく稀にしか気づかないので多分、気づいていない絶交が実はたくさんあるとは想像しているけど…… 『人との距離のはかりかた』という名前しか知らない曲があるんですがときおり名前だけ思い出すんですがそれがわかってないのではと思って思い出すのははじめてだな!

どうやら人との距離のはかりかたは、わかるわからないとかじゃなくて、やっている人はやっている系ぽいということに齢24にして気づいたのだけど、齢24になっちまったので、仲良い(と思っているか願っているかしている)人はどうか、うまくステップを踏んで良い距離を掴んでくれと祈るしかない針人間(針人間はウソ、というのは高2以前より比較的やっていっているつもりという気持ち)

 

俺はもう笑わされていたい

同期がいつしか言っていた「作家が死に物狂いで提出してきた努力の結晶を、どうして凡人の私たちがボツにできる?」(意訳)ということについて考えていたような気がするここ数日は。まったく働いてないので全部思考実験だけど、色々試してみた結果、「凡人の僕よりつまんないなんて許さねえぞコノヤロ」という態度である程度までいける気がした。そのためにも僕たちは勉強するしかない?

待合室みたいなところで他の就活生と一緒になる三次面接あたりから、ずっと、「自分がこの集団の中で一番フツーでありますように」と願っていた。高校のときも願っていた。大学ではナラズモノを目指して、諦めて戻ってきた。

そして自分が一番フツーな集団にいたいぞ。周りの人も僕を一番フツーだと思っていて、僕も安心して自分を一番フツーだと思えるような集団にいたいぞ。それが理想。それがユートピア

会社の同期では最初一瞬、僕がヤバい奴みたいな扱いを受けかけて本当にやめてくれ、僕はそうならないことを期待してこの会社を選んだんだぞ、それならコンサル行ったほうが良かったぞ、と暗い気持ちになったけど。でもちゃんと、どんどんフツーになっていった。逆に最初フツーだと思っていた同期はどんどんヤバくなっていった。気づいたらいつも笑っているな自分。僕は相槌をうつ。漫然とテレビを見てひたすら笑っている人の気持ちがわかった気がする。面白いよなあ。誰も笑わせなくても、笑わせてくれるなんて、すごいよなあ。

せめてより良い相槌をうつために、たくさん本を借りた。

『大怪獣』という曲を作りました。

曲を作りました。

作曲をしてみたいなあとずっと前から夢見ていました。
今年に入ってからフォークギターをはじめて、まだコードすらまともに押さえられていないんですが、学生の内に一曲と、焦るようにして、なんとか完成させることができました。

学生を終えるにあたっての挨拶はこの曲に代えさせていただきます。

全てにおいて拙いのですが、いちおう曲らしき形にはなったので公開します。これから先きっと演劇ができなくなるので、こうやって細々と曲作りに勤しんでいきたいと思っています。よろしくお願いします。

 

『大怪獣』

怪獣が 怪獣が 君の 君の街に現れた
G G C D
僕は 僕は あわててジンジャーエールこぼして
G G C D C
なあ君は覚えているかい いつもみんな笑ってたこと
G Em C Em
いつかこの日が想い出になる なんてことも思ってなくて
G Em C Em
振り返ることをやめたいな 大人ぶることもできないで
D C D Em
「忘れたことを忘れないで」って伝えることも忘れていた
D C D Em

La la la...
Em Am C Em
La la la...
Em Am C Em

世界中が 世界中が なにか なにか僕に隠してる
G G C D
君は 君は 他の誰かと通話中
G G C D C

なあ僕は可哀想かい いつも醒めない夢ばかり見て
G Em C Em
いつか世界がめちゃくちゃになる そんなことを願っていたよ
G Em C Em
欠けていたのは感受性で 子供のフリもできないまま
D C D Em
「心を捨てることは無いよ」感傷の代弁者の真似
D C D Em

La la la...
Em Am C Em
La la la...
Em Am C Em

怪獣が 怪獣が 君の 君の街に現れた
G G C D
僕は 僕は あわててジンジャーエールこぼして……
G G C D C


大怪獣

ナウシカに殺されたい

僕等は通常、孤独であることを忘れて生活している。現実は常に流れていき、僕等はさまざまの経験に洗われ、視野は絶えず外界に向って開いている。僕等に接触する外界の事象が、或いは重たく、或いは軽く、次々に僕等の内部に経験として沈殿し、時間によって少しずつ洗い流され、新しい忘却が古い忘却の上に積み重なって行くにつれて、僕等はそれを生きていることだと思い、そのような生きかた、謂わば外界によって生かされている生きかたに、何の疑いも持たぬ。 福永武彦『愛の試み』

 

十日間の孤独を体験してきた。ヴィパッサナー瞑想という瞑想法だ。

この瞑想期間中は「聖なる沈黙」を守らねばならず、それは身体、言葉、心の沈黙を意味する。すなわち、他の人間との会話、身振り手振り、合図、メモ書きなどいかなる形のコミュニケーションも禁じられる。日々の生活の中で聞こえるのは指導者のパーリ語による詠唱や瞑想終了の時刻を告げる鐘、そして風の音だけだ。そうした研ぎ澄まされた環境の中で、一日十一時間もの間、静かに、じっと瞑想を行う。

僕ははじめ、この孤独が自らを鍛える糧になるのではと思い参加することにしたのだが、その考えは間違いだった。冒頭の引用で福永武彦が述べているように、僕らは普段も孤独なのだった。むしろコース中の断絶は心地よいとすら感じられ、自然の間を悠然と流れる時間に調和することで、自身のゆったりとした鼓動を聞くことができた。死ぬまでに心臓が拍動する回数は既に決定されているという説があるが、その意味において寿命が延びていたように思えた。

むしろ僕の心に容赦なく鋼の槌を振るったのは瞑想そのものだった。この瞑想法がどのようなものであるか、パンフレットから引用して紹介しよう。

ヴィパッサナー (Vipassana) はインドにおける最も古い瞑想法の一つです。長い年月の間に失われていましたが、2500年前にゴータマ・ブッダによって再発見されました。 ヴィパッサナー とは、「物事をあるがままに見る」という意味で、自己観察によって自己浄化を行う方法です。まず心を集中させるために、自然な呼吸を観察することから始めます。そして研ぎ澄まされた心で、精神と肉体が常に変化しているというその性質を観察し、無常、苦しみ、そして無我という普遍的な真実を体験を通して学んでいきます。体験を通して真実を学ぶことが、心の浄化につながるのです。

 

僕たちは一日十一時間、胡坐で座り目を閉じて、じっと瞑想を行うことになる。最初の三日間はひたすら呼吸がどのように起こっているかを観察し続け、残りの七日間は、全身にどのような感覚が現れては消えていくのかをひたすら観察し続ける。その間は非常に高度な集中が求められるのだが、自分の心のなんとふらつき易いことだろう!少しでも気を抜くと昔のことを思い出したり、空想に耽ったり、なにかイメージをしてしまっている。試しに十分間だけでも座り、目をつむって呼吸にだけ集中してみてほしいのだけど、いつの間にか考え事をしてしまっている自分に気づくことと思う。

さて、瞑想中の体験についてはいくら書いても書き足りないし、それにこれは誰かの体験談を聞いても「へえーすごいね」で終わってしまう類いのものだと思うので、思い切ってここでは割愛する。ヴィパッサナー瞑想体験記はネット上に無数に落ちているので、気になる人はそちらを読んでみてほしい。ここでは僕が期間中、特に瞑想の感覚を捉え初め、悟り、解脱への道のりを理解した後半に考えていたことを書こうと思う。それは自我の問題についてだ。

悟りに至ると、あらゆる煩悩は消え去り、自我は滅し、執着や渇望、嫌悪といった反応も起こさなくなる。そこにあるのは静かな平穏だけ。既に「私」というものも溶け、生きとし生けるものへの無私の愛で満たされる…… 瞑想を行う前は、そんなものは絵空事か神話に過ぎないと思っていたが、瞑想を進め、毎日の講和を聞くうちに、確かにそのような境地は存在するのだろうと理解することになった。そのような境地を想像することができた。が、しかし、その頃から一つの疑念が頭をもたげる。それは、そのような境地を僕は本当に望んでいるのだろうか?というものだ。

僕たちの心の苦しみは、以下の五つの障害/敵によって生まれると教えられる。それは、

  • 渇望
  • 嫌悪
  • 身体的な怠惰と精神的な無気力
  • いらだちと心配
  • 懐疑、疑惑

であり、なかでも渇望と嫌悪が主な二つとされている。

嫌悪はわかりやすく、なにか嫌な感覚が起こった際(痛みや疼き、熱さや寒さなど)にそれに嫌な気持ちを抱くことである。それに対して渇望は、なにか心地よい感覚が起こった際(快楽や気持ちよさ、喜び、嬉しさなど)後にそのことを強く欲するようになることである。そこで僕にとって困難だったのが、渇望を抑えることだった。

僕は思い出が好きだ。まず楽しいことをするのが大好きだし、それを振り返るのも大好きだ。以前記憶についての文章を書いたことがあるけど、もし自分の体験を純粋に丸ごと保存できる記憶媒体が開発されたら喜んで使用してしまうだろう。そして、もう一度あの楽しさ、感動を味わいたいと考えるようになる。

しかしこれこそが渇望なのだ。

 

僕が好きなamazarashiというバンドの「少年少女」という曲にこのような歌詞がある。

どうせ明日が続くなら 思い出なんていらないよ

この足を重くするだけの感傷なら どぶ川に蹴り捨てた

 

当たり前の話だが、思い出を想ったところで現在の状況や、未来になんの影響も与えない。それはとことん自分一人の勝手な(思い出が主観的なものであるために、純粋に勝手な)行為であり、強いて効果をあげるとすれば少し寂しくなるだけだ。あるいはそれに苦しむことがあるかもしれない。「あの時間をもう一度あの人とやり直せれば」といった渇望が生まれてしまうかもしれない。そうした感傷はどぶ川に蹴り捨てなければならないのだ。

 

そして……あまりに感傷的にハイな出来事が起こるとこうした思い出が生まれてしまう。例えば「あの夜」などといった言葉で指し示されるような思い出があるとしたら、それはきっといつか渇望という形で僕等を苦しめうるだろう。

しかしそんなことは、心のどこかでわかっていたはずなのである。スーパーカーというバンドの「Lucky」とかいう名曲には

「あたし、もう今じゃあ、あなたに会えるのも夢の中だけ…。たぶん涙に変わるのが遅すぎたのね。」

みつかりにくいのは傷つけあうからで??

最近はそんな恋のどこがいいかなんてわからなくなるの。

 

という歌詞がある。一番簡単な例は恋愛だろうけど、なにか不安定で感傷的で、柔らかい生の感情のやりとりを爪を伸ばした素手で行うような行為を、僕等はそれで傷つくたびに「なんだこれは」と後悔するけど、しかし「もう恋なんてしないなんて 言わないよ絶対」なのである。これはなにか。

僕たちは感傷中毒なのだ。浅野いにお的な、新海誠的なつらさを知らず知らずのうちに快感に感じているのだ。もちろんそれは痛くて苦しいものとしてある、しかし僕等はドMなのだ。ヤバイと思いながら、足は心はフラフラとよりヤバイ物語に自分を運んでいってしまうのだ。

どうもそういった人たちには、心の痛みや切実さを、美しいものと勘違いしてしまう傾向があるように思う。痛みや苦しさや、あるいは罪や悲しさが、妖しく煌めく宝石のように感じられてしまうのだ。本当はただそれを握った手から流れた血が光っているだけなのに。

 

それらを悟りは根絶してくれる。全ての経験は無常であると認識し、人生の浮き沈みにいちいち圧倒されることはなくなる。常に平静を保ち、すべての苦悩からは解放される。なんて素晴らしいことだろう。永い浄化の時はすぎ去り 人類は穏やかな種族として新たな世界の一部となるだろう……

 

が、しかし、と。が、しかし、と僕の中のナウシカがいう。『風の谷のナウシカ』は原作漫画と劇場版アニメの二つがあるが、僕の中で叫んでいるのは原作漫画のナウシカだ。物語最終盤、ナウシカは現在の人類を滅ぼし、清浄な世界におだやかで賢い、死さえも否定する美しい人類を復活させようとする旧人類の装置を破壊し、虐殺する。

その時のナウシカの言葉と、同じ場に居合わせた権力と欲の権化であるヴ王との会話を引こう。

 

ナウシカ「絶望の時代に理想と使命感からお前がつくられたことは疑わない その人達はなぜ気づかなかったのだろう 清浄と汚濁こそ生命だということに」「苦しみや悲劇やおろかさは清浄な世界でもなくなりはしない それは人間の一部だから…… だからこそ苦界にあっても喜びやかがやきもまたあるのに」

 

ナウシカ「自分の罪深さにおののきます 私達のように凶暴ではなく おだやかでかしこい人間となるはずの卵です」

ヴ王「そんなものは人間とはいえん………!?」

 

 

僕は瞑想しながら何度もこの会話を思い返していた。あるいは伊藤計劃『ハーモニー』のラストシーン。

さよなら、わたし。さよなら、たましい。

(中略)

いま人類は、とても幸福だ。

 

悟り、解脱に至ることで間違いなく至上の幸福を得ることができるだろうが、それを人間といえるのだろうか? もちろん悟りにはほど遠い地点にいた僕が心配することではなかったが、究極のゴールがそれと納得できなければもう無邪気に修行はできなくなるので、どうしても考えざるをえない問題だった。

結論からいうと、まだ悩んでいる。ナウシカの、ヴ王の言葉は確かに僕等を勇気づけてくれるが、それは穢れた人たちの傲慢であって、真に清く正しい人々を殺し、その罪をも正当化する方便となっているのではないかという疑念は払えない。

もう一度だけ絶望したら、もう一度だけ絶望したら今度こそ人間をやめようといいながら、絶望やめますか?それとも人間やめますかの二択に絶望を選び続けてしまう人生だ。

二月の十日間(の孤独)

なんで自分は十日間の孤独なんて酔狂をしにいかなあかんのかと最近になって問い始めた。それより免許合宿に行くべきなんじゃないかと、もう人生で免許をとれる機会なんて無いのかもしれないんだぞと。実際友達もみんな口を揃えて免許を取るべきだという。いや、免許を取れよコノヤロウといった剣幕でさえある。それは俺が無免許にも関らず「旅人」などというドライブの会を主催しているからかもしれない。ありがとうみんな。

十日間の孤独か、今年に入ってから毎日続けている日記を開いてみると、今日までの十日間は毎日誰かと会っていたらしい。本当に?

後輩、和カツ三枚美味しゅうございました。公演お疲れ様でした。

友達、担々麺美味しゅうございました。また会いましょう。

友達、ジンギスカン美味しゅうございました。楽しい撮影でした。

内定同期、鍋美味しゅうございました。これからもよろしくお願いします。

友達、スシロー美味しゅうございました。人生で一番楽しいスシローでした。

友達、油組美味しゅうございました。また誘います。

友達、ピザ美味しゅうございました。こたつは最高です。

友達、沖縄そば美味しゅうございました。仕事後にありがとうございました。

友達、スコーン美味しゅうございました。興味深い話ができました。

友達、和風パスタ美味しゅうございました。変わらなく安心しました。

友達、汁無しラーメン美味しゅうございました。頑張っていきましょう。

 

こうしてみるとまるで友達が多いみたいだし、しかも実際に多いのかもしれない。俺は人間が好きなのでこうなる。しかし……それでも、その愛情を伝えきることができない。もどかしく思う。下手である。いやはっきりいって怖い。

自分は小学校三年生の秋にそれまで五年間ほど暮らしていたシンガポールから千葉に引っ越してきた。そのときに上手く笑うことができなくなって、それから中学校に上がるまで(中学校に上がるタイミングでまた引っ越ししたのだけど)ずっと笑い顔を腕で隠していた。人前で笑うことがとてつもなく恥ずかしいことだと感じていた。いまではそんなことないが、たまにフト、自分の表情が気になることがある。ちゃんとこの顔で、気持ちが伝えられているだろうかと不安になることがある。

去年は、できるだけたくさんの人にできるだけ愛情を――多くの場合やさしさという形をとって――伝えようとしてきたけれど、これが歪に伝わった結果、相手を損ねることになってしまったんじゃないかと思うことがあった。やさしくして友達を失うことほど悲しいことはない。しかしもう、どう愛情を入力すると正しく出力されるのかわからなくなってしまった。大学に入って役者を五年間やって、少しは表現がうまくなったかと思ったが本質的なところは笑えない小学生の頃とあまり変わっていなかったのかもしれない。いやあまり悲劇的になるのはよそう、うまくなったのだけれど完璧ではないということだ。しかしその僅かなブラックボックスが怖い。怖くなってしまった。

そこで人との付き合い方をゼロから再構築したいと思った。全てのコミュニケーションを実感を以て積み上げなおしてみたいと思った。そのためには一度完全に孤独にならなくてはならない。だからもしかしたら十日間でも短いかもしれないくらいだけど、またショックを受けて笑えなくなるのも嫌なので、このくらいで勘弁してほしいと思う。

怪獣

大晦日の朝に起きるとわたしは怪獣になっていた。

 

夢の中で突飛な設定をなぜかすんなりと理解できるようにわたしはわたしが怪獣であると理解したしかし同時にこれが夢でないということも理解した、夢の中でそれが夢だと理解するのは困難だという反駁はあるが、いま現在この手記を書いている時点までこの感覚は地続きであるからもし読み手が存在するのなら、あなたが私の現実を夢でないと担保してくれることとなる。

まだ空は黒と分化しておらず街は密やかで余計に時計の秒針が煩かったので遠くへ置いた。

怪獣になったと書いたが見た目に何か巨大化したとか鱗で覆われたとかいった変化があったわけではなく、連続していたしかし、怪獣だった。

女が隣に寝ていた。暗闇の中で女の顔はよく見えなかったが、寝息は、苦しそうでときおり口から空気を吐いた。私は暗闇に目が慣れるまで女が空気を不自由に出し入れするのを観察しながら、いまこの女は生きるために呼吸をしているのだ、この女は生きているのだ、という奇妙な感慨を抱いていた、飽きなかった、そして女の顔を正確に認識した瞬間、私は人間だった頃のすべての記憶を喪っていることに気がついた。

女が起きるまで五時間、枕元に置いてあった漫画を読んで待った。中途半端な巻からだった、が、その漫画でも普通の人間が突然謎の能力に目覚めていた。しかしそれによって自らの実存が脅かされるということはなさそうだった。その代わりに、彼らは闘っていた。

明るくなり女が起きたので食べた。

女を飲み込むとき、この女がいなくなることで悲しむ人間がたくさんいるのだろう、親、兄弟、親戚、恋人、友達、同僚、上司……といったことが考えられたら少しは人間らしい部分が残っていたと思えただろうが怪獣なので当然そんなことはなかった。あるいはこれでもう人間には後戻りできない、人間の心を決定的に喪ってしまうことになるという悲しみや諦念といったものも、なかった。ただ中途半端に充たされた食欲が眠気を誘っていた。

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テレビを点けると高校生の母親殺し練炭自殺ホームからの転落事故と、大晦日だろうと不幸は関係なしに起こるのだなと思わず笑ってしまうような最後のニュース。若いタレント二人の結婚報告だけが救いのようだった。速報。怪獣が現れた。遅いよとまた笑う。

中継の映像は鎌倉から上陸してくる巨大な怪獣を映していた。なんだこれは?わたしじゃないのか?怪獣は怪獣らしく建物をなぎ倒していく逃げ惑う人々が画面いっぱいに映し出される。

なんだこれは?

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ソファーに深く身を埋め知らない部屋を見渡すこれが最後の光景か。怪獣の足音が響いている直にここも潰されるだろう。わたしも怪獣のつもりだったのだけど。こんなことなら女を食わずに一緒に終りを迎えるのも悪くなかったかもしれないな。崩壊していく景色の中で、わたしの心はどこにあるのか尋ねながら、悪くない一年だったと。

ともだちのひと

ぼのぼのちゃん、大人になるとともだちはいなくなるのよ。大人になると『ともだち』じゃなくて『友人』になるのよ。『友人』だから、『ともだちのひと』ということよ。だから『ともだち』とはちがうのよ。」

友達

恋人と友達。前まで友達の延長線上に恋人がいて、恋人は友達の上位互換だと思っていたけど最近どうも違うぞとなってきた。いうなれば恋人はステータス異常。恋人と友達のどちらを殺すかってなったら長い目でみたら恋人を殺す。殺せないけど。なんで告白する瞬間、付き合おうとするその瞬間に逡巡が生まれるかって、どこかで恋人より友達のほうが良いって思っているからってのはどうでしょうか。

友達から恋人になって、そして長く付き合っているとまた友達みたいな関係になる。それは結局、理想の関係は友達だってことなんじゃないでしょうか。なんかひょんな拍子に恋愛とかいうバーサク状態になっちゃって、そこからどう頑張って友達の状態に戻っていくかっていう、そういう流れなんじゃないでしょうか。そういう流れです。

 十年間誰とも連絡を取らずに火星に旅に出たとして、戻ってきたときに友達とはうまくやれそうだけど恋人とはどうかな。

友達Ⅱ

ちょっと前に友達だからといってプロに無料で頼み事をしてはいけないなんて問題が話題になったけどさ、良いとか悪いとか決めることじゃないよね。

自分と友達のどっちを優先するかってなったら、もしかしたらどこかで「情けは人の為ならず」なんて考えちゃっているのかもしれないけど、やっぱり友達を優先してしまう。自分の価値を低く見積もっているから?自己犠牲の精神が気持ちいいの?承認されたいのかな?まあそれはそれとして、友達のことが好きだからっていうのが一番しっくりくるように思う。

最近とみに自分はとんでもない強運の星の下に生まれたなと思っている。人生が俺よりイージーモードなやつはいくらでもいるだろうが、ノーマルモードで運のステータスがめちゃ高い方がきっと楽しい。

というわけで俺はもう人生が楽しい。つよがり?自己暗示?もし人生をやり直せるとしたらって妄想をよくするけど、やっぱりこの人生がいまのところいい。あの失敗を成功に変えてしまうことでいまの思い出が喪われるのはちょっと嫌だ。超人なのかもしれない。ははん、これが人生か。ならばもう一度。

というわけでもう自分が楽しいのには満足している。そしたら自分が好きな人が楽しくなってもらうのがいい。そうだろ。じゃあなんでもやるよ。だって友達だもん……