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三塁を蹴る

140字以上書きます

給食袋を忘れた君にバスの窓からそれを投げ込むということ

中学一年生のときの、ささやかな同窓会を開いた。

人生のどこかのタイミングで、思い出を作るのと、思い出に浸るバランスが逆転するのだろうな。正直、僕はまだ思い出が足りない、と感じている。

それはつまり、まだ人生これからだと思っているからか、それとも今までの人生を味気無いと思っているのか……

その問題を考える前に、思い出の総量って決まっているのだろうか?

歳をとるにつれて、きっと思い出の数は増えていく。でもそのぶん忘れていく。いや、忘れていくというよりも、断片化され、デフォルメされ、そして解像度を失っていく。かなしい話だ。

なら外部に記憶を預けるしかない。ここで肝心なのは、記憶を記録に移し替えるのではダメだということ。そこを完全に明け渡してはいけない。あくまでそれはきっかけでなければならない。記録を見たときに、記憶として再びイメージを獲得できるようでなければならない。

写真を撮ろうか?いっそビデオを回そうか?

どちらも悪くないけど、少し思い出を手離し過ぎているようでこわい。その点日記はいい。日記には感情を乗せることができるから。

でもそうして、日記を読み返して獲得した思い出を、いったいどうする?バランスを崩したとき、日記の住民になるのは寂しい。

じゃあどうしたらいいのかというと、当時の思い出を共にした友達と話せばいい。これがすごいのは、思い出がまた新たな側面を見せ、息を吹き返すところだ。

こうなると思い出はもう歴史になってくる。旧い友達という名の歴史学者が、ガンガン歴史を修正してくる。ときにはいないと思っていたはずの人がいたり、その逆も然り。時にはいま現在の人生にも関わってくるようになったりする。

そして、旧い友達と思い出話をするときに鈍く輝くのは、そんな機会においてさえも、言えない思い出だ。それは一人で抱え込むものもあれば、二人だけで秘密にしているものもある。特に後者の思い出は二人の間にピリピリと瞬く。あるいはピリピリとなっているのは自分の側だけなのかもしれない。

僕が忘れてしまったら、もうそれは起こらなかったことになってしまうのかもしれない。歴史学者も気にも留めない暗黒時代。僕はそんな思い出と心中の覚悟を決めて生きていくのが好きだ。