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三塁を蹴る

140字以上書きます

ナウシカに殺されたい

僕等は通常、孤独であることを忘れて生活している。現実は常に流れていき、僕等はさまざまの経験に洗われ、視野は絶えず外界に向って開いている。僕等に接触する外界の事象が、或いは重たく、或いは軽く、次々に僕等の内部に経験として沈殿し、時間によって少しずつ洗い流され、新しい忘却が古い忘却の上に積み重なって行くにつれて、僕等はそれを生きていることだと思い、そのような生きかた、謂わば外界によって生かされている生きかたに、何の疑いも持たぬ。 福永武彦『愛の試み』

 

十日間の孤独を体験してきた。ヴィパッサナー瞑想という瞑想法だ。

この瞑想期間中は「聖なる沈黙」を守らねばならず、それは身体、言葉、心の沈黙を意味する。すなわち、他の人間との会話、身振り手振り、合図、メモ書きなどいかなる形のコミュニケーションも禁じられる。日々の生活の中で聞こえるのは指導者のパーリ語による詠唱や瞑想終了の時刻を告げる鐘、そして風の音だけだ。そうした研ぎ澄まされた環境の中で、一日十一時間もの間、静かに、じっと瞑想を行う。

僕ははじめ、この孤独が自らを鍛える糧になるのではと思い参加することにしたのだが、その考えは間違いだった。冒頭の引用で福永武彦が述べているように、僕らは普段も孤独なのだった。むしろコース中の断絶は心地よいとすら感じられ、自然の間を悠然と流れる時間に調和することで、自身のゆったりとした鼓動を聞くことができた。死ぬまでに心臓が拍動する回数は既に決定されているという説があるが、その意味において寿命が延びていたように思えた。

むしろ僕の心に容赦なく鋼の槌を振るったのは瞑想そのものだった。この瞑想法がどのようなものであるか、パンフレットから引用して紹介しよう。

ヴィパッサナー (Vipassana) はインドにおける最も古い瞑想法の一つです。長い年月の間に失われていましたが、2500年前にゴータマ・ブッダによって再発見されました。 ヴィパッサナー とは、「物事をあるがままに見る」という意味で、自己観察によって自己浄化を行う方法です。まず心を集中させるために、自然な呼吸を観察することから始めます。そして研ぎ澄まされた心で、精神と肉体が常に変化しているというその性質を観察し、無常、苦しみ、そして無我という普遍的な真実を体験を通して学んでいきます。体験を通して真実を学ぶことが、心の浄化につながるのです。

 

僕たちは一日十一時間、胡坐で座り目を閉じて、じっと瞑想を行うことになる。最初の三日間はひたすら呼吸がどのように起こっているかを観察し続け、残りの七日間は、全身にどのような感覚が現れては消えていくのかをひたすら観察し続ける。その間は非常に高度な集中が求められるのだが、自分の心のなんとふらつき易いことだろう!少しでも気を抜くと昔のことを思い出したり、空想に耽ったり、なにかイメージをしてしまっている。試しに十分間だけでも座り、目をつむって呼吸にだけ集中してみてほしいのだけど、いつの間にか考え事をしてしまっている自分に気づくことと思う。

さて、瞑想中の体験についてはいくら書いても書き足りないし、それにこれは誰かの体験談を聞いても「へえーすごいね」で終わってしまう類いのものだと思うので、思い切ってここでは割愛する。ヴィパッサナー瞑想体験記はネット上に無数に落ちているので、気になる人はそちらを読んでみてほしい。ここでは僕が期間中、特に瞑想の感覚を捉え初め、悟り、解脱への道のりを理解した後半に考えていたことを書こうと思う。それは自我の問題についてだ。

悟りに至ると、あらゆる煩悩は消え去り、自我は滅し、執着や渇望、嫌悪といった反応も起こさなくなる。そこにあるのは静かな平穏だけ。既に「私」というものも溶け、生きとし生けるものへの無私の愛で満たされる…… 瞑想を行う前は、そんなものは絵空事か神話に過ぎないと思っていたが、瞑想を進め、毎日の講和を聞くうちに、確かにそのような境地は存在するのだろうと理解することになった。そのような境地を想像することができた。が、しかし、その頃から一つの疑念が頭をもたげる。それは、そのような境地を僕は本当に望んでいるのだろうか?というものだ。

僕たちの心の苦しみは、以下の五つの障害/敵によって生まれると教えられる。それは、

  • 渇望
  • 嫌悪
  • 身体的な怠惰と精神的な無気力
  • いらだちと心配
  • 懐疑、疑惑

であり、なかでも渇望と嫌悪が主な二つとされている。

嫌悪はわかりやすく、なにか嫌な感覚が起こった際(痛みや疼き、熱さや寒さなど)にそれに嫌な気持ちを抱くことである。それに対して渇望は、なにか心地よい感覚が起こった際(快楽や気持ちよさ、喜び、嬉しさなど)後にそのことを強く欲するようになることである。そこで僕にとって困難だったのが、渇望を抑えることだった。

僕は思い出が好きだ。まず楽しいことをするのが大好きだし、それを振り返るのも大好きだ。以前記憶についての文章を書いたことがあるけど、もし自分の体験を純粋に丸ごと保存できる記憶媒体が開発されたら喜んで使用してしまうだろう。そして、もう一度あの楽しさ、感動を味わいたいと考えるようになる。

しかしこれこそが渇望なのだ。

 

僕が好きなamazarashiというバンドの「少年少女」という曲にこのような歌詞がある。

どうせ明日が続くなら 思い出なんていらないよ

この足を重くするだけの感傷なら どぶ川に蹴り捨てた

 

当たり前の話だが、思い出を想ったところで現在の状況や、未来になんの影響も与えない。それはとことん自分一人の勝手な(思い出が主観的なものであるために、純粋に勝手な)行為であり、強いて効果をあげるとすれば少し寂しくなるだけだ。あるいはそれに苦しむことがあるかもしれない。「あの時間をもう一度あの人とやり直せれば」といった渇望が生まれてしまうかもしれない。そうした感傷はどぶ川に蹴り捨てなければならないのだ。

 

そして……あまりに感傷的にハイな出来事が起こるとこうした思い出が生まれてしまう。例えば「あの夜」などといった言葉で指し示されるような思い出があるとしたら、それはきっといつか渇望という形で僕等を苦しめうるだろう。

しかしそんなことは、心のどこかでわかっていたはずなのである。スーパーカーというバンドの「Lucky」とかいう名曲には

「あたし、もう今じゃあ、あなたに会えるのも夢の中だけ…。たぶん涙に変わるのが遅すぎたのね。」

みつかりにくいのは傷つけあうからで??

最近はそんな恋のどこがいいかなんてわからなくなるの。

 

という歌詞がある。一番簡単な例は恋愛だろうけど、なにか不安定で感傷的で、柔らかい生の感情のやりとりを爪を伸ばした素手で行うような行為を、僕等はそれで傷つくたびに「なんだこれは」と後悔するけど、しかし「もう恋なんてしないなんて 言わないよ絶対」なのである。これはなにか。

僕たちは感傷中毒なのだ。浅野いにお的な、新海誠的なつらさを知らず知らずのうちに快感に感じているのだ。もちろんそれは痛くて苦しいものとしてある、しかし僕等はドMなのだ。ヤバイと思いながら、足は心はフラフラとよりヤバイ物語に自分を運んでいってしまうのだ。

どうもそういった人たちには、心の痛みや切実さを、美しいものと勘違いしてしまう傾向があるように思う。痛みや苦しさや、あるいは罪や悲しさが、妖しく煌めく宝石のように感じられてしまうのだ。本当はただそれを握った手から流れた血が光っているだけなのに。

 

それらを悟りは根絶してくれる。全ての経験は無常であると認識し、人生の浮き沈みにいちいち圧倒されることはなくなる。常に平静を保ち、すべての苦悩からは解放される。なんて素晴らしいことだろう。永い浄化の時はすぎ去り 人類は穏やかな種族として新たな世界の一部となるだろう……

 

が、しかし、と。が、しかし、と僕の中のナウシカがいう。『風の谷のナウシカ』は原作漫画と劇場版アニメの二つがあるが、僕の中で叫んでいるのは原作漫画のナウシカだ。物語最終盤、ナウシカは現在の人類を滅ぼし、清浄な世界におだやかで賢い、死さえも否定する美しい人類を復活させようとする旧人類の装置を破壊し、虐殺する。

その時のナウシカの言葉と、同じ場に居合わせた権力と欲の権化であるヴ王との会話を引こう。

 

ナウシカ「絶望の時代に理想と使命感からお前がつくられたことは疑わない その人達はなぜ気づかなかったのだろう 清浄と汚濁こそ生命だということに」「苦しみや悲劇やおろかさは清浄な世界でもなくなりはしない それは人間の一部だから…… だからこそ苦界にあっても喜びやかがやきもまたあるのに」

 

ナウシカ「自分の罪深さにおののきます 私達のように凶暴ではなく おだやかでかしこい人間となるはずの卵です」

ヴ王「そんなものは人間とはいえん………!?」

 

 

僕は瞑想しながら何度もこの会話を思い返していた。あるいは伊藤計劃『ハーモニー』のラストシーン。

さよなら、わたし。さよなら、たましい。

(中略)

いま人類は、とても幸福だ。

 

悟り、解脱に至ることで間違いなく至上の幸福を得ることができるだろうが、それを人間といえるのだろうか? もちろん悟りにはほど遠い地点にいた僕が心配することではなかったが、究極のゴールがそれと納得できなければもう無邪気に修行はできなくなるので、どうしても考えざるをえない問題だった。

結論からいうと、まだ悩んでいる。ナウシカの、ヴ王の言葉は確かに僕等を勇気づけてくれるが、それは穢れた人たちの傲慢であって、真に清く正しい人々を殺し、その罪をも正当化する方便となっているのではないかという疑念は払えない。

もう一度だけ絶望したら、もう一度だけ絶望したら今度こそ人間をやめようといいながら、絶望やめますか?それとも人間やめますかの二択に絶望を選び続けてしまう人生だ。